手の行為の集積
小さな布研究所がつくる手ぬぐいは、およそ260本の経糸と、700本の緯糸でできている。このうち700本の緯糸は、一回ごとにシャトルで糸を飛ばし、筬(おさ)を打ち込むことでできていく。機械であれば1cmの中に均一な本数が打ち込まれるが、手織りではそうはいかず、一回一回の力加減で微妙に異なった打ち込みとなる。作ろうとする布の風合い(袋にするための頑丈なキャンバス地のようなものか、タオルのような空気を含んだ荒いものにするか)によって、力一杯何回も打ち込むのか、やわらかく1回だけ打ち込むのかが変わる。1cmの中に8本なのか10本なのか、その僅かな違いによって生まれる風合いが変わる。着物や襦袢など精緻な織物の場合は糸の細さも密度もこの倍以上となり、相当な神経を使う。そうでなくても、経糸が切れやすかったり、緯糸の太さにバラつきがある場合など、基本的にはどんな場合でもそれ相応の神経を使う。糸の素材、撚り数による伸縮性、経糸の本数、経糸の張り具合などの基礎的な情報をたよりに、手とからだの力の加減、一回ごとに打ち込む時の糸の混み具合、トントンという音の変化などの「機微」を察知しながら調整する。
このように布を「織る」行為のみに焦点を当ててるだけで、様々な知覚情報を動員させて行っていると考えられる。1枚の布を完成させるまでには、他にも糸を「紡ぐ」、「染める」、「整経する」といった他にも数々の工程があるが、それぞれ同様に、糸と手、道具と身体の相互の複雑なやりとりが、最終的な布の機能性、見た目の美しさ、触った時の風合い、仕事の効率性などを成立させている。
このことを理論化したアフォーダンスという認知科学における学問がある。アメリカの心理学者ジェームス・ギブソン(1904-1979)は、「環境が動物に提供するもの、用意したり備えたりするもの」を、アフォード(afford:与える、提供する)の造語として、アフォーダンスと名付けた。例えば...視界を遮られたなかで、天井から吊り下げられたヒモを引っ張り、長さを言い当てるために、手はいろいろな動きをはじめる。下方に引く。側方に引く。振り子状に動かす。回転させる。波立たせる。持ち上げる…。視覚が遮断されたときに、ヒモに対する様々な行為の働きかけは、ヒモが持っている多種のアフォーダンスを、時間をかけて触覚することで受け取ることができる。
手工業としての布作りは、手の行為の集積である。そのひとつひとつの行為は、環境のアフォーダンスをに耳をすませて行われる。糸の細さの違いや、織り目のテクスチャーなどの情報を、膨大な時間をかけながら認知して反応していくなかで、目的にあった布になるように手が行為する。
このように、私たちの手が、素材や道具のアフォーダンスにたいする感受性を豊かにすることはすなわち、背後にある制作環境や、素材が生み出された自然環境に対する理解も深まっている、といえないだろうか。「複雑さ」を理解するということは、人間以外の生物、植物、土壌、天候など森羅万象にたいして、やわらかく交わりつつ、制御して生きていくことだと。それは20世紀の機械化された産業によって失われてしまった、生命の大きな循環を損なわない、叡智に富んだものづくりのあり方ではないだろうか。
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