物質と行為とエネルギー

 自分にとって、「エネルギー」とは何なのか。

 その問いの契機となったのは、3.11の原発事故である。

 原子力発電所とは電気エネルギーを発生させる装置である。そこで生まれた電気は我々の家庭で、部屋を明るくしたり、暖をとったり、PCでインターネットをしたりするのに使われる。しかし我々は電気をつけるたびに建屋のタービンが回っているのを、いちいち想起したりはしない。

それと同じように、私が制作で使用している素材=糸も、大地から摘み取られた綿がどのような行程を経て、どれだけのエネルギーが使われて作られたものなのか、知ろうとも思わず過ごしていた。

しかしその「当たり前に享受しているエネルギー」がいかに複雑で脆いシステムの上に成立しているものなのか、(そしてそのシステム自体が、いかに政治的に操作されている「虚」であるか)を痛感した。よく考えてみよう。エネルギーとは、そもそも自然の循環において生まれるものであり、その循環のなかにある人間の身体が、「動く」ことによって生まれるものではなかっただろうか。

 そこで私は、糸が作られる最終段階である、「紡ぐ」という行程を自分でやってみることにした。使う道具は「チャルカ」というもので、これはマハトマ・ガンディーがイギリスからの独立運動のシンボルとして使ったことで有名だ。人が紡ぐための道具には他にもいろいろと種類があるらしい。最も原始的な機械はスピンドル(紡錘)という細い棒状のもの。日本で広く使われていたものは、インドのチャルカと似て座りながら車を回す。ヨーロッパでは羊毛を紡ぐために足踏み式の糸車を使う。私が使うチャルカは、手でディスクを回してタクワと呼ばれる先端の棒に動力を伝える。エネルギーの流れが視覚的に見て取れる。

ふわふわの綿が糸になるという魔法のようなことだ。だが、この作業で糸を作り、布を織り、衣服などを作るのに、どれだけ時間がかかるのだろうか。産業革命とは産業だけでなく我々の布や衣料に対する認識の革命であったのだ。そして、今の生活がどれだけ己の身体と切り離されて成り立っているかが身に染みた。(2013.3)

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